浮気って、どうよ。
よく聞くセリフのひとつ。
「男って、浮気する生き物だから。」
これに付随してこれまたよく聞いたり言ったりしているのが
「だいたい浮気って、どこから浮気?」
とか。
「浮気はする方が悪い」
「いやいや、される方にだって落ち度が・・・」
とか。
「浮気がばれたら絶対否定」
「極秘、墓場まで持っていくのだ」
とか。
とにかく「浮気」って事柄は、ご婦人達が集まれば事例のひとつやふたつどころか
「あの子のとこも」「あそこの旦那が」「あの子が? 意外だしっ」等々
十も二十もでてくると言っても過言では無いほどに話題がある。
日々の何気ない日常に、
ふとよぎる「ああ、このままでいいのか俺(もしくは私)」的な風がそわわーと吹いたら・・・・。
そしてそんな時にウルウルとした目で自分を見つめる人が目の前に現れたら・・・。
ということで。
ごましおの半世紀のホンネ、第五弾。
今回のお題は「浮気って、どうよ」です。
ごま的「浮気って、どうよ。」
付き合っている相手に浮気をされたことは(たぶん)ない(ハズ)
けれど。
私自身が実は「浮気相手という立場」だった、ということは正直あったりする。
しかも2度。
2度も、自分が浮気相手になったことがあるのだ。
わはははは(笑うしかない。)
彼には私以外に彼女がいるのだ、(結婚前提で2年同棲、両親にも挨拶済、後は入籍するだけのフィアンセ持ち、というツワモノもいた。)と判明した時のどん底具合と言ったら・・・・。
そりゃあもう泣くか笑うか状態で「ないわー。本当ないわー。」としか言いようがなかった。
そんな(しなくてもいい)実経験を踏まえ
「浮気って、どうよ」と問われたら
「どうしようもないね。」と答えるしかない。
浮気はしてはいけないこと。ダメなこと定義ではある。
私も自分が浮気相手なのだとわかった時には「浮気するなんてサイテー」とか「人としてダメだろう」等と声高々に叫んでいた。
でも、だ。だけどもだけど、だ。
じゃあ自分は浮気をしたことがないのかと問われると「してましたな。」という結果なのだ。
そもそも浮気とは「ひとつのものに集中できず他のものに興味が移りやすいこと」という意味だ。
オムライスオーダーしたけど、やっぱりナポリタンも食べたいよな。とか
明日試験だけど、どうしても部屋の掃除しちゃうー。とか。
こっちも好きだけど、あっちも気になる、ってことだ。
よくあることじゃないか?と思えるのだ。
自分の目の前に少しでも自分を幸せにしてしまう誰かが現れてしまったら。
オトナだろうが女だろうが男だろうが独身だろうが既婚者だろうが、
我慢や理性が吹っ飛ぶってことは、ある。
もう、これは「どうしようもない。」(身も蓋もない。)と思うのだ。
やってはいけないこと、なのかもしれないけれど。
どうしようもない時もあっちゃったりするのはしょうがない、と思う。
浮気という行為を、肯定も否定もしない。
我慢、とか理性、とか常識的に、とか人として、とかいろいろある。
あるけれど、「どうしようもない」ってことも、ある。
その「どうしようもないこと」を理解していたら、
もしかしたら案外人生って楽に過ごせるのかもしれないな、とも思うのである。
浮気は、誰でもしちゃうものだ。だって「どうしようもないこと」だから、ね。
ちなみに
「ヤレる」が基準の行為は浮気ではない、それは遊びね。
そこは賢く見極めていこう。
シオ的「浮気って、どうよ」
自分はかなり鈍感な人間だと思う。
結婚以前の恋人含め、パートナーに浮気をされた経験がない。
まじめな人としか付き合った事がないという訳ではない。
元カレに「私と付き合っている間に浮気したことあった?」
と聞いたら「うん」と答えていたし。
そして脇が甘い。
自分がそういう行為に及んでしまった時、恋人から
「何が悲しいって、君が嘘をついている事を分かってしまう事が悲しい」と言われた事がある。
いったいどんな顔をして、どんな嘘をついたのか全く覚えていないけれど。
独身時代も鑑みて、今の自分の立場(婚姻生活約20年)で言えるのは
「浮気は止められないもの」なんだと思う。
「I can't help falling in love with you ~」とプレスリーも歌っていたように、
愛すること(恋に落ちる事)は理屈じゃないし、止められない。
実はどちらか(もしくは両方に)戸籍上あるいは事実上、特定の相手がいたとしても、
惹かれ合う当人たちの心は理性や倫理で抗う事のできないものなのだと思う。
ただセックスのみの関係なら、話は簡単なんだろうけど。
じゃあ、実際に夫に浮気をされたら。
もしくは私に心惹かれる男性が現れたら。。。
「しょうがないよね」とクールに一言で済まされるのだろうか。
自分は感情のままに突き進むのだろうか。
正直、その時になってみないとわからない。
ただ、現実として永遠の愛を誓って結婚した相手でも、苦楽を共にし、トイレも共有する生活を送る中で、
いつまでもお互いが性の対象でいられるのはとても難しいと思う。
浮気を容認するわけではないが、
「日常の生活戦争の中で夫婦が男と女でいられる術は脳科学的にはありえない」と。
そんなの理不尽だと憤慨する人は叶恭子を見習うといい。
叶恭子の生き方は潔い。
彼女は言う。
「わたくしはいわゆる恋人というカテゴリーを持ちません(中略)ですから、「浮気」などという言葉も無縁です。」
こうとも言っている。
「結婚した次の日に、それ以上ときめく人がわたくしの目の前にあらわれた時、わたくしはきっと約束を守れないでしょう。結婚という神聖な儀式の約束を守れないのであればするべきではない、とてもシンプルです」とも。
まさにおっしゃる通り。
実にシンプルで気持ちが良い。
人に好意を持ち、その人をもっと知りたい、一緒にいたい、触れ合いたいと思うのはとても自然で素敵なことだ。
故にいくつになってもできることなら恋をしたいと望むが、私たち世代で自由に恋愛を楽しめる立場にある人は少ない。
既婚者あるいはステディな相手がいる人にとっては浮気なわけで、
芸人にとっては芸の肥やしだで済まされる場合もあるが、許せないと叩かれる人もいる。
著名人にとっては職を失うほどのスキャンダルになったりもする。
すべてにおいて自由なのがオトナの特権だけど “freedom and responsibility.”
やっぱりそれなりの覚悟は必要ってことよね。